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アメリカおとーさんってこんな人
このブログを管理している「アメリカおとーさん」です。
名前の通り、アメリカでお父さんをしています。
2014年生まれの息子と2016年生まれの娘、そして妻の4人暮らしです。
アメリカにやってきたのは2008年。
東海岸の小さな田舎町にある大学院へ留学するためです。
その後、縁があって同じ大学の大学院に通っていた日本人と結婚。
在学中に長男が生まれました。
子育てと学問を両立させ無事に博士号を取得して大学院を卒業。
妻も卒業したのを機に、一家でカリフォルニアへ引っ越しました。
カリフォルニアにきて長女が生まれ、我が家は4人家族に。
現在はカリフォルニア州のベイエリアと呼ばれる地区にある大学で、基礎医学の研究者として働いています。
もともと研究者は稼げない職業であるうえに、ここは生活費が絶賛高騰中のベイエリア。
本業だけではとても生活できないので、引っ越してから見よう見まねで副業ブログ・サイト運営を始めました。
このブログは、アメリカ生活のこと、英語のこと、子育ての事、ベイエリアのこと、副業のことなどをつらつらと書いています。
アメリカおとーさんの人生【日本編】
私は日本生まれの日本育ちです。
関東地方で生まれ、中部地方で育ちました。
中学校まではそこそこ勉強が出来たので調子に乗って進学校へ入学。
でも高校で遊び倒して勉強は全くせず。
そのくせ志望校は国立大学!と国立しか受験せず、当然のように大学受験に失敗しました。
まあでも浪人すればなんとかなるだろうと根拠のない自信だけはあったので、両親に頼み込んで1年だけと約束して浪人生活に突入。
ところが夏までは浪人仲間とまたしても遊び倒してしまいました。
夏の全国模試で散々な結果に終わったため、さすがにこれはまずい!と思いそこから心を入れ替えて猛勉強。
なんとか奇跡的に志望校へ合格することが出来ました。
大学では生物系の理系学部へ通うことになりました。
でも実は高校では生物を勉強したこともなく、特に生物に興味があったわけじゃなかったんです。
10代だった当時は父親とそりが合わず、その父親が企業の技術系エンジニアだったため、
(あのクソ親父とは違う仕事に就こう!)
と、安っぽい反発心から生物系学部を受験したにすぎませんでした。(ちなみに現在は父親と仲良しです。)
生物に興味はなかったものの、受かっちゃったからには大学へ行かないと。
という感じで生物系の道へ進みました。
これがその後の人生で基礎医学の研究者として歩むことになったきっかけなので、ある意味父親の影響を受けてるとも言えます。
さて、大学は縁もゆかりもない関西の大学へ進学しました。
親元を離れ、晴れての一人暮らしです。
よし、大学で一生懸命勉強するぞ!
と思ったか思ってないか覚えてませんが、生来のサボり癖がここでも顔を出し、やっぱり大学でも遊び倒しました。
悪友と知り合ったことをきっかけに、一人暮らしの解放感も手伝って毎日のように飲み会、麻雀、合コン。
大学生の遊びはお金がかかるので、バイトもたっぷり入れて。
勉強する暇なんてほとんどありませんでした。
そんな感じの大学生活だったので、成績は散々。
留年しなかったのがせめてもの救いです。
そんな遊びまくりの大学生活も4回生になると一変します。
私の通った大学では4回生になると、研究室に所属して卒業研究をします。
基本的には研究室へ毎日顔を出さなくてはならず、実験も一日がかりです。
私が所属したのは、生活習慣病に深く関わるとあるタンパク質を研究している研究室でした。
そこで朝から晩まで研究室に入り浸り、研究漬けの日々を送ることになりました。
さらに大学院入試が迫っていたこともあり、研究と同時に入試対策の勉強も始めなくてはなりませんでした。
私の学部では、ほとんどすべての人が卒業後同じ大学の大学院修士課程に進学します。
私は大学生活を通して、特に勉強や研究が好きっていうわけではありませんでしたが、何の疑問も持たずにみなと同じ修士課程への進学を決めていました。
朝から晩までの研究生活と大学院入試の勉強。
これまでの自堕落な生活が一変し、研究と勉強の規則正しい生活が始まりました。
アメリカおとーさんの人生【立志編】
4回生の卒業研究では一応独立した研究テーマを与えられます。
でも学部生は研究に関して素人なので、実験計画の立て方や実験の進め方、データ解析の方法に至るまで、博士課程の先輩が手取り足取り教えてくれます。
私についてくれた博士課程の先輩もやさしくいろいろ教えてくれました。
その先輩のおかげて最初は何をやっているんだか、何の目的でやっているんだかよくわからなかった実験も、徐々に楽しく感じるようになってきました。
特に、自分で考えた仮説を証明するために行った実験で思い通りの結果が出たりすると、何とも言えず興奮したのを覚えています。
研究って楽しいかも!
卒業研究を始めて3か月くらい経つと、そう思い始めていました。
ところが、理系の研究というのは自分の実験を進めるのも大事ですが、最新の研究論文を読むのも大事なんですね。
そして研究論文は全部英語で書かれています。
英語なんて大学入試が終わってから全くと言っていいほど勉強してこなかったので、全部英語で書かれた論文を読むのはかなりの苦痛でした。
辞書を片手に1ページ読み進めるのも四苦八苦。
さらに英語論文をなんとか解読したところで、論文に書かれている内容がほとんど理解できません。
というのも、大学生活で遊びまくっていたせいで、生物学、生化学、有機化学などなど論文内容を理解するための基礎知識が圧倒的に足りてなかったんです。
もうそろそろ大学卒業で、これから専門知識を高めるための大学院に入学しようというのにこの体たらく。
こんな状態で大学院に入っていいんだろうか。
っていうか自分は浪人してまで入った大学4年間で何をしていたんだ...。
そんな疑問と後悔がふつふつと湧いてきました。
ちょうどそのころ、私が通っていた大学に利根川進が講演にやってきました。
利根川進は日本人で初めてノーベル医学生理学賞を受賞した超有名研究者です。
研究生活に入ったばかりの4回生である私でも名前くらいは知っていました。
彼は日本で生まれ育ち、京都大学を卒業後、アメリカ・カリフォルニア州にあるカリフォルニア大学サンディエゴ校(University of California San Diego)の分子生物学の博士課程に進学しました。
利根川が勉強したかった分子生物学分野は、当時の日本では大変遅れていたためです。
アメリカの大学院で最先端の分子生物学を学んだ利根川はその後、スイスのバーゼル免疫学研究所で後にノーベル賞を受賞することになった研究を始めます。
利根川はスイスで研究生活に没頭し、当時世界の誰も仕組みが分からなかった免疫グロブリンに関する研究を完成させて発表しました。
彼の研究成果は瞬く間に世に広がり、世界中から称賛されたのでした。
この研究成果によりノーベル賞確実と目された新進気鋭の若き研究者「利根川進」に目を付けたのがアメリカの名門大学マサチューセッツ工科大学(MIT)です。
MITは当時まだ40代前半だった利根川を教授として迎え入れます。
利根川が最初に渡米してから18年後の1981年のことでした。
利根川は免疫学で大きな成果を上げたので、当然MITも彼を免疫学部の教授としてリクルートしました。
ところが彼は、
「僕の中では免疫学はカタが付いた。MITでは新しいことにチャレンジしよう。」
と、MITで免疫学とは関係のない全く新しい研究を始めます。
それが脳と記憶に関する研究です。
彼がすごいのは、この分野でもかなりの業績を上げていることです。
現在では80歳近くになった利根川は、いまでもこの分野で第一線級の研究者として知られています。
当時大学4回生だった私は、利根川進の講演に参加しても彼の研究内容はさっぱりと分かりませんでした。
でも「最先端の勉強をするためにアメリカの大学院へ留学する」という彼の選択に衝撃を受けました。
研究者や医者がアメリカに留学するのは当時も今もよくあることです。
でもそれは日本で大学院を卒業し、博士号や医師免許を取った後、研究目的で留学するのが一般的。
ところが、利根川はアメリカの大学院へ学位を取りに行ったのです。
そしてその講演で彼は言いました。
「サンディエゴで留学生活を始めたとき、こんな天国みたいなところがあるんだ!と思った。天気はいいし、景色が美しい。図書館は24時間開いている。ご飯だってカフェテリアに行けばいつでも食べられる。勉強するには最高の環境だった。」
この言葉で私の目標が決まりました。
アメリカの大学院へ行って分子生物学の博士号を取る!
「海賊王に俺はなる!」みたいで、今考えるとかなり浅はかなんですけど、若かった私はもうアメリカ大学院留学する以外、将来の選択肢は考えられなくなってしまいました。
4回生になってから自分の英語力と基礎学力の低さを後悔し始めていていたのは先ほど書きましたが、「アメリカ大学院留学」すればこの問題を両方解決できるのではないか?と考えました。
サイエンスの世界は英語で回ってる。どうせサイエンスを勉強するなら、最初から英語で学んだほうが効率がいいのではないか?
と思うようになったのです。
興奮冷めやらぬまま家に帰り、その日のうちに大学院留学についていろいろ調べました。
周りに大学院留学している人はいませんでしたが、ネットを探すと日本人でもアメリカの大学院で学位を取った人が結構いることが分かりました。
有名どころだと大前研一(MIT博士)とか鳩山由紀夫(Stanford博士)なんかがそうですね。
アメリカ大学院について自分なりに調べると、以下のようなことがわかりました。
・理系の博士課程は学費もタダ。しかも給料までもらえる。
・入試は書類審査
・研究以外にもしっかりとした授業があり、試験もある
・成績が悪いと退学になる
・アメリカでは博士号取得者が研究者以外でも活躍している
なんだかアメリカの大学院って厳しそう!
自堕落な私にピッタリじゃないか!!
留学し卒業したそのあとのことは、このときは基本的にあまり考えてなかったような気がします。
とにかくアメリカへ行くんだ!
そんな感じでここからアメリカ大学院留学へ向けて突き進むことになったのです。
アメリカおとーさんの人生【アメリカ大学院受験1回目編】
英語もできないのに勢いだけでアメリカ大学院留学を決めた私ですが、目前には日本の大学院入試が迫っています。
でも、もう私の頭の中はアメリカ一色。
院試?落ちでもいいでしょ。
「夏が終わったら俺はアメリカだ。」by山王工業・沢北
という気分だったので、ほとんど日本の院試勉強はせずに、大学院留学の準備を進めていました。
アメリカ大学院の入試は基本書類審査です。
・英語のテスト(TOEFL)
・共通の学力テスト(GREという日本でも受験できるテスト)
・大学学部の成績
・エッセイ(なんでその大学に入りたいのかを書く)
・推薦状
で合否が決まります。
このうち英語のテスト(TOEFL)は足切りみたいなもので、一定以上の点数を取ればOK。
逆に言うと、TOEFLで足切り点を取れないと自動的に不合格ということになります。
TOEFLは受験したことがある人はわかると思いますが、TOEICと比べ物にならないくらい難しいです。
現在は方式が変わってしまいましたが、当時は300点満点。
多くの大学でTOEFL足切り点は250点でした。
私はとりあえず腕試しで受けてみたところ、198点を取りました。
まあ思ってたよりは点とれたかな?という感想です。
そして院試の勉強を無視して3か月がっつりと、ほぼTOEFLだけ勉強し2回目は200点でした。
この2回目の点数が出たとき私はサーっと血の気が引いていく思いでした。
あれだけみっちり勉強したのに、わずか2点しか伸ばせなかったのです。
アメリカ大学院の出願締め切りは12月中旬から1月中旬。
この時点で10月でした。
やばい、このままでは留学できない!
出願書類はTOEFL以外にもたくさんあるのです。
焦りまくった私はここから死ぬ気でTOEFLの勉強をやり、さらに他の書類の準備をし、共通試験(GRE)を受け、そして卒業論文を書くために研究もやるというめちゃくちゃな生活を送りました。
結局TOEFLは225点までしか伸ばすことができず、それでも諦めずになんとか必要書類をそろえて5校くらい出願しました。
が、すべて不合格。
残念ながら、アメリカ留学の夢破れたり...。
と思いきや、実は日本の大学院入試には合格していたのです。
全くと言っていいほど対策をしてないのに合格してしまって申し訳ないんですが、日本の大学院入試って学部の入試に比べるとかなりテキトー(というウワサ)なんですよ。
なので、とりあえずアメリカ大学院進学の夢は置いといて、日本の修士課程に進学することにしました。
「君は日本一の高校生になりなさい」By湘北高校・安西先生
ということで、とりあえず日本に残って(というかそれしか選択肢がなかったんですが)研究の修行と英語の勉強をもう少し頑張ってからアメリカ大学院をもう一度目指すことにしました。
アメリカおとーさんの人生【アメリカ大学院受験2回目編】
アメリカ大学院から合格をもらうことはできなかったものの、日本の大学院には合格したのでそのまま同じ大学の修士課程に通うことになりました。
修士課程の研究テーマは、卒業研究で1年間従事したテーマと同じ。
生活習慣に関係しているとあるタンパク質についてです。
4回生の卒業研究を通してある程度「研究とは、実験とはなんなのか?」を身に付けていたので、その頃になると博士課程の先輩の力を借りずに自分で実験を進めることが出来ていました。
しかもアメリカ留学準備で英語の勉強もしていたので、論文もかなりすらすら読めるようになっていたんです。
実はサイエンスの論文って非常にわかりやすい英語で書かれていて、英語で書かれた書物の中ではかなり読むのが簡単なんですよね。
4回生のころはそんなこともわからずに辞書を片手に一生懸命でした。
それくらい私の英語力は低かったのです。
修士課程で研究生活をしながら、相変わらず私はTOEFLの勉強とアメリカ留学用共通テスト(GRE)の勉強をこなしていました。
TOEFLは何回も受けるうちに、点数を取るためのコツのようなものを会得し、5回目の受験でついに273点/300点をたたき出しました。
この点を取った時は小躍りするほどうれしかったのを覚えています。
ところが、TOEFLよりももっと厄介なのがGREでした。
GREは数学、英語、小論文からなる共通試験なのですが、TOEFLと違ってアメリカ人も受けなくてはならない試験です。
基本アメリカ人向けに作られているため、外国人にとって英語と小論文はゲロが出るほど難しいのです。
逆に数学は日本人には屁が出るほど簡単です。
TOEFLをクリアした私でしたが、このGREに心底苦しめられました。
風のウワサではGREの理系博士課程はGREスコアはあまり関係ないそうです。
でもあんまりひどい点数は取れません。
最低でも50%は取れるよう、呪文のような英単語を毎日毎日覚えていました。
GREの目標点はクリアしていませんでしたが、修士課程1年生も半年を過ぎたころに私は興味があるアメリカの大学教授にメールを出してみました。
「私は日本の〇〇大学修士課程に在籍している学生です。あなたの大学の博士課程に出願しようと思ってます。合格したらあなたの研究室で研究がしたいです。」
こんな感じの文面です。
何の面識もない日本人の学生がいきなりメールを出したのにも関わらず、ほぼすべての教授が返事を返してくれました。
「メールありがとう。合格したらぜひうちの研究室に来てね。アプリケーション頑張ってね!」
返事はほとんどこんな感じの定型表現でしたが、アメリカ人の教授がメール返してくれた!という事実には結構感動しました。
そんななか、沢山メールを出したうちの一人の教授が信じられない返信をくれました。
「実は来週東京でセミナーをする予定になっている。旅費を出してあげるから、東京まで私に会いに来ないか??」
!!!!!
なんというグッドタイミング!
しかも旅費を出してやるから東京まで来いと言っています。
これは私に興味があるのだろうか??
私は舞い上がり、二つ返事でOKしました。
ところがよく考えたらTOEFLのスコアはクリアしたとはいえ、アメリカ人と英語で会話した経験なんてありません。
私は急に怖くなってきました。
あれ?もしかして私に直接会って、あまりにも英語が出来ないことがわかったら幻滅されるんじゃないのか?
私はそんな不安を打ち消すよう、そこから教授に会う一週間の間に会話のシュミレーションを何百回と繰り返しました。
こういう質問されたらこう答える!
こう聞かれたらこう!
馬鹿みたいに何度も何度もシュミレーションを繰り返し、1週間後に満を持して東京行の新幹線に乗ったのです。
連絡をくれた教授とは品川駅近くのホテルで待ち合わせました。
そのホテルのレストランでセミナー前に昼食を一緒に食べようという約束だったのです。
私は心臓が飛び出そうになるほど緊張しながら、指定された場所で待っていました。
すると、教授は約束の時間通りに現れました。
事前に研究室のホームページで彼の容姿はチェック済み。
アジア系の初老男性。
ホームページに載っていた写真通りの顔です。
でも思っていたよりも背が高い!
そして横には彼の研究室で長年研究員として働いている教授の奥さん。
彼女もアジア系です。
こちらは思っていたよりも小柄!
教授は豪快に笑いながら、
「おお、よく来てくれたね!会えてうれしいよ。さあ、まずはお昼ご飯を食べよう。」
とあいさつもそこそこに、私たちはホテル内の日本料理屋へ移動しました。
この日東京に来るまで、相手が言っていることが分かるのか、英語で会話が出来るか、あれだけ不安だったにもかかわらず、実際に教授に会ってみるとその不安は一気に吹き飛んでいました。
教授はめちゃくちゃゆっくりわかりやすい英語をしゃべるうえに、ほとんど一人でずーっとしゃべっているので、適当に相槌を打っていればよかったのです。
レストランに入ると教授は、
「僕は日本のサッポロが大好きなんだ!君も飲む?」
と、昼間だったのに当然のように生中を飲み始めました。
しかもこれから研究セミナーをしようというのに。
これがアメリカ人なのか!
ちょっとしたカルチャーショックです。
教授はビールを飲みながら、私の研究内容について質問してきたり、アメリカでどんな研究をしてみたいのかを聞いてきました。
その辺はシュミレーション通り。
かなりスムーズに答えられたと思います。
しかも私が1つ答えると相手は10くらい喋るので、シュミレーションよりも楽に話が進みます。
これは結構いい印象を与えらたんじゃないのか?
この日は研究の話題のほかにもいろいろ話した気がしますが、緊張のせいか何を話したのかあまりよく覚えていません。
でも思っていたよりも相手の英語を理解できたことと、シュミレーション通りに会話が出来たことでかなりの自信になり、なんともいえない満足感を感じていたことだけは今でもはっきりと覚えています。
教授とはがっちりと固い握手をして、アメリカで再会することを約束して別れました。
教授からは別れ際に、「これ約束の交通費だよ。」と封筒を渡されました。
封筒の中身は米ドルで300ドル。
すべて20ドル札でした。
私は大量の20ドル札と、なんともいえない充実感と高揚感を胸に、品川駅から再び新幹線に乗って東京を後にしたのでした。
結局東京で会ったこの教授が留学後に私の博士課程の指導教授になり、公私ともにとってもお世話になったのですが、それはまたしばらく後のお話です。
アメリカおとーさんの人生【ついに合格編】
関西に帰った私は東京での興奮も冷めやらぬまま、アメリカ大学院出願のための勉強に一層気合を入れて臨みました。
もちろん研究室での研究も一生懸命やっていました。
そして修士1回生の冬、ついにGREの目標点もクリア。
満を持して2年目のアメリカ大学院出願を果たしたのです。
東京で出会った教授がいる大学、利根川進と同じサンディエゴの大学、そしてそのほかにも何校か出願し、全部で10くらいの大学に応募したと思います。
今回は1回目と違ってかなり自信がありました。
TOEFLは足切り点をクリアしているし、GREもそこそこスコアを取ったし、なんといっても本物のアメリカ大学教授と話をしたんです。
何とかなるだろう。
そんな思いでした。
アメリカの大学院は12月から1月に出願締め切りがあり、1月末から2月末にかけて面接があります。
面接はキャンパスに候補者を呼んで現地で行うんですが、アメリカ国内にいない留学生は電話インタビューが一般的です。
私は出願後の約1か月してから3校から電話インタビューのお知らせをもらいました。
3校のうち1つは東京で話した教授がいる大学です。
インタビューの連絡がきたということは、書類審査には合格したということ。
私は本心では飛び上がるほど嬉しかったですが
「まだ慌てるような時間じゃない」by陵南高校・仙道
と自分に言い聞かせ、電話インタビューのシュミレーションに全力を尽くすことにしました。
電話インタビューはどうやら候補者の英語力を主にテストするようです。
これはネットで仕入れた情報でした。
英語がほとんどしゃべれないのにTOEFLやGREなどのテストスコアがやたらと高い外国人がたまにいるらしく、そういう学生を排除するのが目的だとネットには書いてありました。
私は東京で教授にあった時と同様、こうきかれたらこう答える!この質問にはこう返す!というシュミレーションを何百回と繰り返し、最初の電話面接本番に臨みました。
ところが、ふたを開けてみるとインタビューはグダグダで終わりました。
というのも、電話での英会話って音質はよくないし、相手の表情やしぐさは見えないし、めちゃくちゃ難しいんです。
しかもインタビュアーのなかに現役のアメリカ人大学院生がいて、彼らは東京で出会った初老の教授のようにゆっくりはっきりと喋ってくれません。
電話口で、ばーーーっと早口でまくしたてられ、何を言っているのかさっぱりわからない。
焦りまくって、シュミレーションしてきた言葉が出てきません。
インタビューは30分くらいで終了しましたが、結局ほとんど会話らしい会話は出来ずに終わりました。
2校目の電話インタビューも同じような感じであまり相手が言っていることを理解できず。
3校目は少しは答えられたかな?という感じでしたが、相手がしゃべったことの3割くらいしか理解できませんでした。
ああ、終わった…。電話での英会話がこんなにも難しいなんて…。
結局アメリカに行けないんだ…。
私は電話インタビューに失敗したことで絶望的な気持ちになりました。
ところが2-3週間後、意外なことにインタビューを受けた3校すべてから合格通知が届いたのです。
On behalf of the Graduate Committee, I am very pleased to offer you admission to XXX Graduate Program at XYZ University beginning September of 2008. This offer of admission includes the award of a Fellowship that will provide a full tuition scholarship, a prepaid health insurance plan, and a student stipend. The stipend for the 2008-2009 academic year is $25,250, and typically increases on a yearly basis, contingent upon satisfactory performance in your studies.
実際に届いた合格通知の文面です。
「あなたは2008年に始まる博士課程に合格しました。学費と生活費と健康保険は成績が優秀な限り全部保証されるよ!」
簡単に訳すとこんな感じです。
3校とも同じような感じで、学費全額免除+生活費+医療保険をオファーしてくれました。
あれだけ電話インタビューがグダグダだったのに合格をもらってなんだか不思議な気分でしたが、これでついに夢だったアメリカ大学院留学の夢がかなう!
私はこれまでの苦労が報われたことで、天にも昇るような気持でした。
残念ながらこの3校以外はすべて不合格。
最初にあこがれたサンディエゴ(行ったことすらないけど)も不合格です。
でもそんなことは今となってはどうでもいい。
私は3つも合格証を持ってるんです!
アメリカの大学院では4月の中旬までにどの大学へ進学するのか決めなくてはいけません。
私は思いました。
実際に留学したら5-6年はずっとそこで過ごすんだ。実際にキャンパスや街の様子をこの目で見ないことには決められない!
ということで、進学先を決める前に実際にキャンパスを訪問してみることにしました。
合格した3校はすべて東海岸の大学でした。
といっても全部飛行機で移動するような距離。
私は綿密な貧乏旅行の計画を立て、合格した大学の事務に
「入学前にキャンパス見学したり、大学院生・教授と話してみたいから訪問したい!」
という問い合わせをしました。
すると驚いたことに、
「もしうちの大学を訪問してくれるなら、アメリカ国内移動費を払う。宿泊費も払う。日本との航空券は3校で割り勘できないか交渉してみる。」
という返信をもらったのです。
アメリカの大学院って書類審査なので、一人で何校も受験するんですね。
だから複数校から合格をもらう人も珍しくなくて、合格後に学生の取り合いになるみたいなんです。
大学側からすれば、合格を出したからにはその学生に入学して欲しいということ。
決断の助けになるんだったらぜひ訪問してほしい!
という理論みたいです。
入学したら学費免除で生活費まで支給してくれるのに、アメリカの大学院というのは何と太っ腹なんだろう。
私は入学する前からアメリカの大学院のシステムに魅了されていました。
1週間の予定で合格した3校を回り、英語は怪しいながらも現役の院生や教授たちを話をしました。
もちろん、東京で出会った教授とも現地で再会して。
どの大学もそれぞれ特徴があり、ここで暮らしたらこんな感じになるのかな。この大学ではこんな研究ができるな。といろんな想像を膨らませながら自分の将来について思いを巡らせました。
そして帰国後、悩みに悩んでついに進学先を決めました。
東京で出会った教授がいる、東海岸の小さな大学街にある私立大学です。
季節はもう春になり、私は修士2回生になっていました。
4回生の時に留学を決意してから約2年、ついにアメリカの大学院で博士号を取ることが正式に決まりました。
アメリカおとーさんの人生【カナダ放浪編】
なぜ、唐突にカナダ放浪編かというと、アメリカ留学が始まる前に3か月間カナダを放浪していたからです。
ここではその時のお話を書いています。
アメリカ大学院に合格し、
「夏が終わったら俺はアメリカだ。」by山王工業・沢北
が現実のものとなりましたが(アメリカの新学期は9月から)、私は自分の英語力でアメリカでやっていけるのか不安でした。
かといって、新学期が始めるまで語学留学するのもなあ。
そんな感じでいろいろ調べていると、カナダという国に目が留まりました。
カナダはご存知のように英語圏なんですが、日本人なら観光ビザで6か月まで滞在できます。
さらにカナダの自然は雄大で、カナディアンロッキー、オーロラ、ナイアガラの滝などなど、見所が満載。
「アメリカ留学までカナダ国内を貧乏旅行しながら英語を学ぶのはどうだろう?」
大学院留学を思いついた時もそうでしたが、私はコレ!というアイディアが思いついたらそのことしか考えられなくなるのです。
その時点で4月末、大学院のプログラムが始まるのは8月末です。
5月中に出発できれば3か月は放浪できるな。
私はそこから渡米ならぬ渡加の準備を急ピッチで進めました。
まず所属していた日本の大学院を辞め、一人暮らししていたアパートを解約し実家へ戻ります。
放浪資金は学部時代にためていた貯金と、両親に頼み込んで援助してもらった資金でまかなえばなんとかなりそうでした。
そしてカナダバンクーバーを拠点に、エドモントン、カルガリー、トロント、モントリオールなど、広大な国土を持つカナダ国内を旅してまわる計画を立てました。
思い立ってからわずか2週間くらいの間に出発日とルートを決め、日本最後の一週間は友人と別れの飲み会続き。
あっという間に出発の時がやってきました。
いよいよ留学生活が始まるんだ!(実際には留学じゃなくて放浪ですけど)
期待と不安を思いを胸に、私は家族と友人に見送られながらカナダ経由アメリカ留学へと出発したのです。
ちなみにカナダ放浪中はおもしろい体験をたくさんしたので、個別記事に書こうと思います。
アメリカおとーさんの人生【大学院留学開始編】
カナダでの3か月間放浪生活を終え、私は日本には帰らずにカナダからそのまま留学先のアメリカへ向かいました。
自分の留学生活はもう始まったんだ!最低1年は帰らないぞ!
という決意もあったし、そっちのほうが無駄なお金を使わずに済むからです。
アメリカ留学にあたって取得しなければならない米国学生ビザは、バンクーバーのアメリカ総領事館で申請したらすぐに申請がおりました。(※米国は第三国でのビザ申請を推奨していません!真似するなら自己責任でどうぞ。)
8月末にカナダから無事アメリカへ入国しました。
ちなみにカナダからアメリカに向かうと、カナダの空港でアメリカの入国審査があります。
空港からはバスで大学院のある街へ向かいました。
3月に大学訪問で一度来ているので、約半年ぶりの訪問。
でも今回はこの街で暮らして学位を取りに来たのです。
自然とテンションも上がります。
無事に目的地についたら、ゆっくりする間もなく生活のセットアップでした。
必要なものをいろいろ揃えたり、大学のIDカードを作ったりしてたらあっという間に大学院初日になってしまいました。
アメリカの大学・大学院は入学式はありません。
簡単なオリエンテーションがあって、いきなりプログラムが始まります。
私のクラスメイトは全部で20人くらいいて、そのうち留学生が私を含めて6人でした。
留学生の出身国は、中国、韓国、台湾、インド、オーストラリア、そして日本(私)です。
オリエンテーションでは各研究室の教授が簡単に研究内容を説明したり、先輩大学院生が大学院生活やキャリアについてアドバイスしてくれました。
ユニークだったのは、アメリカの大学院生は年齢やバックグラウンドも様々なので、結婚している院生や子どもがいる院生向けのアドバイスもあったことです。
当時私は独身で子供もいませんでしたが、院生でも結婚している人がたくさんいるんだ!(ま、日本の大学院にもいますけどね。)
と驚いたことを覚えています。
さて、オリエンテーションのこういったプレゼンは発表者の英語を理解できたのですが、困ったのがクラスメイトとの会話です。
アメリカ人クラスメイトの会話スピードの速いこと速いこと。
彼らは留学生にも積極的に話しかけてくれるんですけど、全く何を言っているかわかりません。
ババババ~っと話しかけれれて、こっちが反応に困っていると、またババババ~と発言する。
いったいどうやってこの人たちと会話をすればいいのか、まるで見当が付きません。
カナダ放浪で多少は英語に自信が付いていましたが、もろくも崩れ去った瞬間でした。
逆にクラスメイトの留学生とは話が弾みました。
特に中国、韓国、台湾の東アジア出身の人たちとは英語レベルも近くて、お互いの国のことをよく知っているので、すぐに打ち解けることが出来ました。
こんな感じで自分の英語力に不安を覚えつつ、大学院生活が始まって行ったのでした。
アメリカおとーさんの人生【大学院留学前半編】
アメリカ大学院の授業
日本では大学院は修士課程と博士課程に分かれていて、まず修士号を取ってから博士過程に「進学」します。
ところがアメリカでは修士を取りたい人は修士課程に、博士を取りたい人は博士課程に入学します。
そして生物・医学系の場合、多くの大学では修士課程がありません。
日本の大学院とアメリカの大学院の大きな違いの一つは、アメリカの大学院は授業がガッツリとあることです。
アメリカの博士課程では、すくなくとも最初の2、3年は宿題もあり、小テストもあり、中間・期末試験もあるという学部のような授業をします。
ここで成績が悪いと最悪の場合退学になります。
アメリカの大学院では給料をもらえるので、授業をまじめに受けない、授業についていけない人は金を払う価値はない。出ていけ!というわけなんですね。
もちろん授業が開催されている期間も研究室に所属して研究活動をします。
だから最初の2-3年はめちゃくちゃ忙しいんです。
私の場合は留学生だったので、この忙しい生活に加えて英語のハンデがあります。
大学院生活最初の2年間は、肉体的にも精神的にも結構きつかったです。
私の大学院プログラムでは1年目は必修クラス、2年目から選択クラス、そして1年目以降卒業まで毎年論文紹介クラスを履修する必要がありました。
必修クラスは生化学、分子生物学、遺伝学、微生物学、神経科学、免疫学を1年間かけて勉強します。
授業は週三日、1回2時間半でした。(途中休憩あり)
これだけの量をたった一年で終えるんですから、授業スピードは鬼のように早いです。
教科書1冊を渡されてほとんどが自習。
で、授業で扱うテーマは最重要部分かつ、最新の論文などを交えたアドバンスレベルの内容でした。
生化学、分子生物学、遺伝学あたりは日本でも履修したし、日本の修士課程時代に自分でも独学したので、アメリカでは復習のような感じでなんとか乗り切ることが出来ました。
ところが免疫学や神経科学は日本でも全く勉強したことがなく、知らないことばかり。
しかも全部英語です。
毎回授業の後は図書館に通って夜まで復習、そして次の授業までには指定された教科書の範囲を読んでいかなければなりません。
そのページ量は膨大です。
しかも基礎知識がないので、読んでいるうちに疑問がわいたり、知らないことが出てきたらその都度調べないと理解できない。
だから予習もかなり時間がかかりました。
授業では宿題も出たりするので、これも毎回時間がかかって大変でした。
この必修授業では各テーマごとに3回、定期試験がありました。
生化学で3回、分子生物学で3回、、、、といった具合です。
この試験がまたやっかいで、制限時間がなんと3時間!
終わったら勝手に教室を出ていっていい方式だったので、クラスメイトの半分くらいは2時間もたたないうちに退室していました。
ところが私は、まず問題文を読むのに結構時間がかかる。
なので、毎回3時間みっちり使っていました。
試験が終わった後は脳汗かきまくりで、どっと疲れました。
試験結果は自分の点数のほかクラス平均、標準偏差も発表されます。これを見れば、自分がクラスでどの辺に居るのかよくわかるんです。
試験平均は毎回得点率7割くらい、時には8割を超えていました。
でも決して試験が簡単ってわけじゃないんです。
みんな必死ぶっこいて勉強しているのです。
この定期試験の結果と宿題の評価を総合して学期末に成績が付けられます。
A、B、Cが「合格」あとは不合格のF(Fail)です。
ところがCを二つ取ると、退学を勧告されます。
だから実質B以上が安全圏、Cはイエローカードということになります
Fなんて問題外で、1発退学です。
非常に厳しいですが、向こうもお金を払ってるので、ダメな奴はいらないというスタンスなんですね。
ただし、いきなりFやCが付くわけではなく、定期試験で成績が悪いと「このままではCかFですよ!」と、学期途中で警告を受けるシステムになっています。
授業についていけないなら現役院生がTAをやってくれますし、授業を教えている教授も鬼ではないので質問に行けば丁寧に答えてくれます。
それでもFを取る奴はやっぱいらない。Cならケツに火が付いているから次からは頑張れ!と発破をかけられるのです。
私の場合は点数が6割以下に迫るヤバい試験もありましたが、一度もCを取ることなく無事に1年を乗り切れました。
2年目からは選択制の授業を取ります。
私の大学院では卒業までに4つ以上授業を取りなさいというルールがあり、自分の興味に応じで好きなようにクラスを取れます。
この選択授業はディスカッションや実習中心のアドバンスレベルとなっていて、まさに大学院生向けといった感じでした。
試験はあったりなかったりしますが、こちらも必修クラスと同様に、Fは1つ、Cは2つ以上で退学となるので気が抜けません。
私がこの時に履修した「光学顕微鏡の応用授業」はいろんな顕微鏡の仕組みから使い方、それらを使った最新の研究論文まで丁寧に解説してくれる素晴らしい授業で、今の研究生活にもかなり役立っています。
こんな感じで大学院の1-2年目は授業中心で進んでいきました。
アメリカ大学院での研究
アメリカでも日本でも、理系大学院のメインは研究活動です。
日本は修士課程に入学する時点で所属する研究室が決まっているのが普通です。
ところがアメリカの、少なくとも生物系大学院はローテーションという制度があって、1年目は所属する研究室が決まっていません。
ローテーションとはその名の通り、1年かけて3つか4つの研究室をまわり、それぞれの研究室で小さなプロジェクトを進めます。
まあ1つの研究室で過ごす期間なんて3か月くらいなので、ほとんど何も結果が出ないんですけど、ローテーション制度のおかげて研究室のメンバーは学生がちゃんとまじめにやるのかどうか評価できるし、学生の側も将来所属するかもしれない研究室を評価できるというという利点もあります。
あとは1年目は授業が忙しいので、まずはメインで授業をこなし、研究活動はお試し程度にという意図もあると思います。
私は一番最初に大腸ガンの発生メカニズムを研究している研究室でローテーションをし、次に東京で出会った教授の研究室に所属して、最後にタンパク質の輸送メカニズムを研究している研究室でローテーションを終えました。
どこの研究室も非常に魅力的で、メンバーや教授も優しかったんですけど、やっぱり私がこの大学に来たのは東京で会った教授と一緒に研究したかったからだ!
という思いから、彼の研究室に所属して博士研究をすることに決めました。
大学院1年目が終わる6月のことでした。
アメリカ大学院でのTA
アメリカの大学院生は、Teaching Assistant(TA)として学部生の授業補助をする場合があります。
TAは選択制という大学院もありますし、必須という大学院もあります。
私の大学院では最低でも1学期、全員TAをやらなければならないルールでした。
その時の経験についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。
感想を一言でいうと、日本で生まれ育った日本人がアメリカ人に英語でものを教えるのはめちゃくちゃ大変でした。
まあ今となっては良い思い出です。
アメリカ大学院のQualifying Exam
アメリカの大学院博士課程にはQualifying Examと呼ばれる大きな試験があります。
Qualifying Examについて、詳しくはこちらに書きました。
この試験は博士(PhD)としてのクオリティ(資質)があるかどうかを検査する試験で、大体大学院2年目か3年目にあります。
大学院によっていろいろな形式がありますが、合格できなかったら退学になります。
アメリカの大学院って隙あらばクビにしようとしますよね。
まあこれは学生の尻を叩いてまじめに勉強させるという側面もあるのかもしれません。
あとは学生にも給料が出ているので、不真面目な学生を排除しないとコストが無駄になるという考えもあります。
Qualifying Examは非常に厳しい試験ですが、まじめにやれば絶対に合格できるようになっています。
私の所属した大学院では、自分の博士研究の今後5年間の研究計画を書き、それををもとに口頭試験を受けるという形式でした。
試験審査官は、所属する大学院の教授陣の中から自分で好きな人を2人選びます。
そして自分で選んだ2人が3人目の審査官を選び、全部で教授3人からなる「コミッティー(審査委員会)」がQualifying Examの試験官となります。
Qualifying Examではまず自分の博士研究について、今後5年間の研究計画を書きます。
この研究計画書をコミッティーに提出し、OKが出たら今度は研究計画書に関する口頭試験を受けます。
口頭試験は全部で2時間くらい、非常に厳しい質問を浴びせられ続けます。
そのような厳しい質問に答えることが出来ると、Qualifying Examに合格し、晴れてPhD candidate(博士候補生)となるのです。
私の大学院ではPhD candidateになると、年間の給与額が500ドルほどアップしました。
めちゃくちゃ大変な試験ではありますが、かなり勉強になってよい経験だったと思います。